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エル・リシツキー

 時はロシア革命期。
当時のロシアの識字率はとても低く、そのために言語そのものを視覚表現によって伝えることを求められた傾向にあった。
そういった特性をもって生まれたロシア・アヴァンギャルドという芸術運動を代表する作家として、やはり一番に思いつくのはエル・リシツキーである。
彼を語る上で欠かせないものが詩人マヤコフスキーと共同編集し作り上げた「声のために」という書籍である。

この書籍は文字の読めない人に対しても、見るという行為を通して、直感的にそこにあるものを理解させることを理念に制作されたものであり、現在の視覚言語という概念を作りだした。
また書籍として初めてインデックスシステムを導入したことも有名な話である。
この書籍は後世に多大な影響を与える。
まさに革新そのものであった。

 エル・リシツキーは「見る」という行為に長けた人物である。
当時のロシアでの識字率の低さは、つまるところ就学率の低さに起因する。国がそういった教育などの法整備をする余裕が、その当時になかったこともあるだろう。
つまるところ、文字を学べる者は暮らしに余裕のある裕福層だけである。
そういった背景とその頃の世間に渦巻いていた平等な社会を築こうとする動きをエル・リシツキーはしっかりと見ていた。
だからこそ、一般大衆に対しても、視覚言語を利用し、平等に理解が可能な「声のために」を制作したのではないかと私は思う。
自分を取り巻く環境を観察し、それにもっとも望ましい答えを導き出す。
まさに「見る」という思想である。

 人に伝えるためにはどうすればいいか。
それが現代デザインの原点であると私は考えている。
伝えるべき対象をどのように見つめるのか、どのように見るべきなのか、伝えるべき対象と自分との関係性を明白にし、そこからどのように見せるべきか、ということを導き出していく。
この一連の過程こそ、エル・リシツキーの思想を体現している。
それほどまでにエル・リシツキーが現代に残した「革新」は現代デザインに深く根付いてる。
そしてこれからも、それは生き続けていくことだろう
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アナログとデジタルのハイブリッド

ロサンゼルスのアニメーション会社Lift Animationが制作した2003年のストップモーションアニメーション作品

The Toll Collector from Lift Animation on Vimeo.

 

まあ、足の長いこと長いこと
平面上で動くアニメや実写の人が演じる映画などでこのデザインはただの気持ち悪いものにしか見えません
ですが、こういった特異な人形のデザインもコマ撮りアニメーションの中ではとても魅力的なものに見えてきます
これだけ足が長いと撮影は大変でしょうけど(笑)



こちらはアメリカのアニメーション会社LAIKA※1 の新作映画『The Boxtrolls』
これ一見してCGアニメに見えますよね?
実はこれ、れっきとしたコマ撮りアニメーションなんですよ
人形の繋ぎ目なんかありとあらゆるアナログ感を排除して作られた、もはやコマ撮りアニメーションなのかCGアニメーションなのかよく分からない作品です
あまりに精密すぎるので、ここまでするならピクサー作品みたいなフルCGでいいじゃん……って思いますが(笑)

人形の繋ぎ目や特異な形状はどこかアナログ感を生み出し、それが受け手に親近感を与えます
クリエイティブ業界が徐々にデジタル化していくにつれて、こういったアナログ感をあえてだしていこうというクリエイターは少なくないみたいです
デジタル作品はどうしても味気ないというか誰が作ってもあまり大差ないという感じにどうしてもなってしまうのが短所です
もちろんそれを補えるだけの長所があるんですが、クリエイターという人種にはやはり独自性というものが時に必要になってくるんじゃないかなぁ
上手くデジタルとアナログのハイブリッドを目指していくのが次世代のクリエイターなんだろうなぁと個人的には思っているとかいないとか
まあ、何とも言いがたい話ですよね
クリエイターはこれからどういう進化をしていくんですかねぇ……





※1 ティム・バートンの映画「コープス・ブライド」の人形をつくった会社です。人形の精密さは間違いなく最高峰

リリィ・シュシュのすべて 花とアリス 独白

前提として、これは映画評に見せかけた独白。自分勝手に色々と書いているので注意してください

僕は世間で言うとこの「大人」にあたる。
成人を超えれば、社会ではそう認識される。
それがお約束。



これから2つの映画について記事を書こうと思う。
ネタバレを含むので注意して欲しい。
「リリィ・シュシュのすべて」 「花のアリス」
2つとも岩井俊二監督の作品だ。
どちらの主人公も、まだ社会で言うところの子どもであり、とても狭い世界の中を生きている。
まずは「リリィ・シュシュのすべて」から触れよう。




中学生というもっともあやふやな時期の少年とその周囲を独特な手法で描きだした作品。
イジメ、自殺、レイプ、援交といった過激なテーマが入り混じる不快でカオスな世界と、美しい光に満ちた田園風景がスクリーンに映しだされている。
素晴らしい映像美とは裏腹に内容は非常に不快極まりない。
特に市原隼人演じる主人公「蓮見雄一」が忍成修吾演じる「星野修介」のイジメグループにリンチまがいのイジメを受け、無理やり自慰をさせられるシーンなどは嫌悪感しか抱かない。
少なくとも今の自分。
大人になった自分はそう感じている。
ならば子どもの頃……ちょうど、中学生の自分ならばどう感じるだろう。
思い出してみると、少し感覚が変わってくる。
人とは違ったもの。
キッチュ【1】なものへの憧れがあった。
今思えば痛々しい趣味だが、僕はドクロのアクセサリーを身につけ、ヴィジュアル系バンドの曲をひたすら耳にし、まさに典型の中2病【2】というやつに感染していた。
ただ「特別」でいたい。
そういう時期だ。
道を外れた生き方に羨望の眼差しを向け、並の生き方には嫌悪を抱く。
周囲の大人がただただ邪魔なだけ。
ペシミスティック【3】な思考だけが肯定される。
そのくせ自分を嫌悪し、それを誤魔化すために他人を傷つける。
口は本音を語らない。
でも、誰かに気づいて欲しい。
自分で書いていて、背中が痒くなってくる。
多かれ少なかれ、思春期をむかえた子どもこのような症状がでてくるものだ。
あの映画の主人公たちも例外ではない。
皆、それぞれ違う境遇にいる中で、自身に嫌悪し、特別でいたいと願っている。
だかからこそ特別な誰かに自分を投影していく。
蓮見雄一、そして星野修介にとっても、それがリリィ・シュシュという作中に登場するアーティストであり、唯一の救いなのであった。
残酷な現実へのアンチテーゼ【4】であると言える。
どこかで自分をダメにしてしまいたい。一種の破滅願望。
生きることが怖く、死ぬことも怖い。
誰かを傷つけたい。誰も傷つけたくない。
矛盾が常に寄り添うのだ。
それを言葉にすることが出来ない。
だから蓮見雄一も星野修介もリリィ・シュシュの歌声の中で、ただ泣き叫ぶしかなかった。
大人の僕は子どもの彼らには選べない道を進むことが出来る。
だが、彼らには目の前の道しか進むことを許されていない。
それが子どもであることの理不尽さを表している。
理不尽なまま彼らは苦海を渡っていく。
悲しい悲しい「フィクション」である。




続いて「花とアリス」について触れる。





ありえないほど陳腐で、勘違いばかりの恋を綴ったお話。
「花の女子高生」とはよく言ったものだ。
桜が舞う4月に鈴木杏演じる「荒井花」と蒼井優演じる「有栖川徹子」はリアルな息遣いをしながら歩いて行く。
それは演技というにはあまりにお粗末。素人がただ歩いていると言っていい。
そこに「華」は感じない。
その素人感こそがリアリティを引き出してくれる。

リリィ・シュシュほどの不快感はこの作品にはない。
例えるならば、少女漫画のような世界だ。
恋というありがりなテーマにレトリック【5】な映像とリアルな脚色を加える。
それが花とアリスという世界を構成しているのだ。

彼女たちは嘘の恋と周囲の環境に苦悩する。
仕事へのプレッシャー、家族への不安、友情と嫉妬、淡い恋心。
大人になるまでには必ず経験することだろう。
思春期にありがちな悩みというやつだ。
子どもである彼女たちはそれらに対する答えを求めながら日々、生きている。
それがかけがえのない日々であるという実感を得るために、たくさん傷ついて、たくさん泣いて、たくさん笑うのだ。
やがて培った思い出を引き出しに仕舞って、大人になっていく。
それでも現実は確かに「其処」にあった。
記憶となってしまっても、過去になってしまっても、其処に存在していたのだ。
それがたまらなく愛おしい。

子どもというものは、何とも残酷な世界で生きている。
逃げ道はなく、言葉というツールは飾りでしかない。
周囲に映る自分と本当の自分へのギャップに苦悩する。
誰も答えを教えてくれないし、当人も何を悩んでいるのか言葉に出来ない。
袋小路の中で、それでも何かに救いを求めて、また別の苦悩を味わう。
必死に生きるのか、必死に死ぬのか。
そんな言葉遊びに真剣になる。
夜中になると、ふとこのまま、一生の眠りについてしまうんじゃないかと怖くなる。
それでも眠くなるし、朝は来る。
僕はそれを繰り返しているうちに、いつの間にか大人になっていた。

子どもの頃に憧れたお酒やタバコは、今や普通に買える。
コンビニに行って、店員に差し出せばすぐだ。
しかしなぜだろうか、あんなに煌めいていたものたちはすっかり色あせてしまった。
リリィ・シュシュも花とアリスも僕には遠い遠いセピア色のフィクション。
それはまるで寂寞とした深夜の街のようで……僕はため息しかでてこない。




1世間で言うとこの陳腐、低俗なもの。サブカル。
2自己愛を揶揄した言葉。
3悲観的
4反対の理論、主張
5技術









クラウドソーシング「ランサーズ」

半径三メートルの発想 

 松永真は国内外を問わず精力的に活躍している日本を代表するグラフィックデザイナーのひとりである。有名な代表作をあげるならば、松永真特有のグラフィック表現が展開し、文字だけを全面にうちだした「北欧デザインの今日_生活の形」、多色のストライプによる「カリフォルニアアート・シーン」、平和や環境をテーマとしたポスター「PEACE」「VISION OF WATER」などがある。またシンボルやロゴタイプなどをみると、それぞれのテーマに基づいた造詣を生み出す。特にロゴタイプにおいては文字の一部を切り落としたり、反転させたりなどタイポグラフィの一般常識を打ち破り、可読性のぎりぎりのせめぎ合いの所を狙った見事なデザインをもたらし、まさに日本のタイポグラフィ界に新たな風を吹き込んだ人物である。

松永真の活躍は1978年にニューヨークで行われた「日米グラフィックデザイン展」において金賞を受賞した所からスタートする。それを皮切りに世界各地での著名なコンペにおいて受賞が続く。[注1]それはイコールとして松永真のデザインが世界各地に認められたのである。日本的なものからくる物珍しさではなく、あくまで国際的視点から受け入れられたものが具体的な形として現れた結果であった。
 アメリカのクリエイティブディレクターであるルー・ドーフスマンは「使われている日本の文字さえなかったら、それが日本人の作品だということは誰も見抜けないだろう」と、松永真のデザインに国際性があることを指摘している。
 松永真のデザインは常にコンセプトが明快で、それでいて多彩である。洗練された構成要素、テーマに対しての深い理解とアイデアが持ち味である。無駄がなく妥協を許さないプロフェッショナルな仕事ぶりが松永真のデザインを支える柱となっているのだ。
 松永真の作品において最も素晴らしいのは視野の深さ、思考を表現するイメージであるとルー・ドーフスマンは語る。[注2]
 松永真のイメージの広大な分布範囲は実に驚異的である。一方に、ゆったりと自由で、力強い筆の流れ、躍動する色彩表現があるかと思えば、片一方では、想像されたイメージが緻密で最新な表現形式とって、別種のメッセージを伝達する。それらは互いを補い合い、要求されたテーマを的確に表現するために、完全に効果的で同時に視覚的に劇的な表現を想像するのである。
 けれども、松永真が卓越しているのは、単にその素晴らしき技術や表現形式にとどまらない。作品の内側に内包するアイデアをさらに深いところにまで追究していくと、そこには曖昧な思考は存在しない。洗練された計算のうえに成り立つ思考過程が誰の目にも明白に浮き彫りとなる。それはまさに思考の具現であり、西洋美術が長い歴史の中で追い求めてきた「完璧」という存在に近しい距離に存在しているのではないかと私は思う。
 グラフィックデザイナーとしてその才能を惜しむことなく発揮している傍ら、松永真にはもうひとつの顔が存在する。それはプロダクトデザイナーとしての顔だ。
 誰もが一度は目にしたことがあるスコッティやブレンディ、UNOといった日常生活を支えるプロダクトは松永真がデザインしたものである。スコッティについて松永真は語る。[注3]
ティッシュというのは老若男女万人の生活必需品だから、全方位形に親しめるものを要求あれる。そういうとき私はいつも、私にとってティッシュペーパーとは何か、私はどのようなものを欲するのだろうか、という地点からスタートする。
 このように誰に対しての作品であるのかをあらかじめ熟考することは松永真にとっては作品造りの基盤であり、原点なのである。大げさな理論ではなく、自分の日常生活の領域に焦点を合わせ、確認行為をする。言うなれば、それが松永真のデザイン論なのである。
 松永真はこのデザイン論を「半径3メートルの発想」と語っている。亀倉雄策は松永真のデザインを「日常性の美学」と称している。[注4]
これほど松永真に合う言葉は見つからない。日常の身辺から見落としがちなデザインのアイデアを見事にすくいあげる松永真の判断の正確さは、他のどのデザイナーの追従を許さないものがある。
生活者の立場になり、既成の枠に縛られることなく、そのデザイン物が自分にとってどうあるべきなのか、それを実現させるにはどうのようなプロセスを踏むのか、立ちはだかる課題をいかに消化するのか、それはまるで教科書のように、明確なスタイルとして私たちに見せつけてくれる。まさに、それは松永真の特性と言えよう。
 松永真のこの特性はデザイン界において、まさに得難いひとつの価値であり、あらゆるデザイナーの目指すべき場所を示してくれていると私は思う。新しい概念を切り開くデザインを展開し、あらゆる方向に広がり続けている。本質的な価値を求められるデザイン業界において松永真の「半径3メートルの発想」こそ根底にあるべき思想なのではないだろうか。





注1)ウィキペディア 松永真 http://ja.wikipedia.org/wiki/松永真 [2013年8月2日]
注2)「松永真のデザイン・ニューヨーク展」図録 パーソンズ・スクール・オブ・デザイン・ニューヨーク 1989年
注3)第一紙行40周年記念「松永真のデザインワークス」全国巡回展図録 ショーイングスペース・クロス 1989年
注4)松永真、デザインの話。+11 著者 松永真 2000年発刊
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